昭和のいる・こいるとは?本名・死因・代表ネタと東京漫才への功績を徹底解説【2026年】
「ヘーヘーホーホー」「よかったね、よかったね」——。相手の話を聞いているようで、どこか聞き流している。そんな独特の掛け合いで、寄席からテレビのお笑い番組まで幅広い人気を集めたのが、漫才コンビ「昭和のいる・こいる」です。
1966年にデビューした二人は、1976年のNHK漫才コンクール優勝をはじめとする実績を重ね、東京漫才を代表するコンビへと成長しました。昭和こいるさんは2021年12月30日に77歳で、昭和のいるさんは2025年5月24日に88歳で逝去。2026年現在、二人の掛け合いを生の舞台で見ることはかないませんが、その笑いは今も東京の寄席芸を語るうえで欠かせない存在です。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- コンビの正体:1966年にデビューした、昭和のいるさんと昭和こいるさんによる東京漫才の名コンビ。
- 代表的な実績:1976年のNHK漫才コンクール優勝、1977年の国立演芸場花形演芸賞銀賞、2000年の浅草芸能大賞奨励賞。
- 現在と功績:こいるさんは2021年、のいるさんは2025年に逝去。聞き流すような相づちを笑いに変えた独自の芸風で、東京漫才に足跡を残した。
【のいる・こいるとは】本名・プロフィールと二人の人物像
昭和のいる・こいるは、まじめに話を進めようとするのいるさんと、適当な相づちで受け流すこいるさんの対比を武器にした漫才コンビです。大声や激しい動きを前面に出すのではなく、会話の食い違い、間の取り方、繰り返される返事で笑いを生み出しました。
二人のプロフィールを確認する際の基本資料となるのが、所属していた落語協会の芸人紹介です。本名、生年月日、出身地、芸歴などが記録されており、訃報を伝えた報道各社の情報とも一致しています。
昭和のいるさんの本名は岡田弘(おかだ・ひろし)。1936年7月23日、石川県生まれです。大学卒業後に獅子てんや・瀬戸わんやへ入門し、コンビでは主にツッコミを担当しました。話題を振り、相方の返事に反応しながら漫才を展開する役回りです。
昭和こいるさんの本名は庄田太一(しょうだ・たいち)。1944年1月26日、群馬県生まれです。日本大学芸術学部に進んだ経歴を持ち、歌声喫茶での活動を経て漫才師になりました。コンビでは、のいるさんの話を受け止めているようで受け止めていない、独特のボケを担いました。
二人の出会いは、最初から漫才師を目指していた者同士の計画的な結成ではありません。歌を好み、歌声喫茶で活動していた二人が、会話のおもしろさをきっかけに漫才の世界へ進んだことが、その後の芸風を考えるうえでも重要です。

【結成秘話】歌声喫茶から1966年の初舞台へ
二人は歌声喫茶で知り合い、1966年にコンビとして初舞台を踏みました。落語協会の記録によると、初舞台は同年4月1日の浅草松竹演芸場です。当初のコンビ名は「花園のいる・こいる」でした。
漫才師としての師匠は、獅子てんや・瀬戸わんや。当時の東京漫才を代表する師弟関係のなかで、二人は芸の基礎を身につけました。結成に至る経緯を詳しく紹介する演芸史資料「東京漫才のすべて」には、二人が本格的な弟子入りを前に、新宿の花園饅頭で働いて資金を蓄えたというエピソードも記されています。
この経験は、初期のコンビ名にもつながりました。「花園」の名には、働いた店への縁や恩を忘れないという意味が込められていたとされます。芸名にはその後も変遷があり、「花園のいる・こいる」から「のびる・こえる」を経て、現在広く知られる「昭和のいる・こいる」へと改められました。
「のびる・こえる」という名前には、師匠の芸を伸ばし、乗り越えていくという願いが重ねられました。その後、歌手の三橋美智也さんの提案をきっかけに「昭和」の名を冠する芸名へと変わったと、演芸史資料は伝えています。
若い頃の二人は、歌やギターを取り入れたネタにも取り組んでいました。初舞台ではこいるさんがギターを持ち、民謡や歌を織り込んだ芸を披露したといいます。現在よく知られる相づち漫才だけが、最初から完成していたわけではありません。歌を軸とした試行錯誤の時期を経て、二人ならではのスタイルが形づくられていきました。
【経歴・年表】NHK漫才コンクール優勝と受賞歴
昭和のいる・こいるの歩みは、デビューからすぐに大ブレイクしたという単純なものではありません。コンクールで評価を得ても、その後の人気が直線的に伸びたわけではなく、寄席で経験を積み、芸風を磨きながら評価を確立していきました。
経歴を整理すると、1976年のNHK漫才コンクール優勝が大きな節目である一方、テレビを通じた幅広い世代への浸透は、それからさらに時間がたった1990年代末以降だったことが分かります。落語協会のプロフィールと当時の演芸史資料、報道各社の訃報記事をもとに、主要な出来事をまとめました。
| 年月・時期 | 出来事 | 主な意味・実績 |
|---|---|---|
| 1966年4月 | 浅草松竹演芸場で初舞台 | 「花園のいる・こいる」として漫才師の道を歩み始める |
| 1971年 | 「のびる・こえる」に改名 | 師匠の芸を伸ばし、乗り越えるという願いを込めた芸名 |
| 1970年代前半 | 「昭和のいる・こいる」へ改名 | 三橋美智也さんの提案が改名の由来として伝えられる |
| 1976年 | NHK漫才コンクール優勝 | 「民謡あれこれ」を披露して最優秀賞を受賞 |
| 1977年 | 国立演芸場花形演芸賞銀賞 | 演芸界での実績を示す受賞歴 |
| 1984年 | 漫才協団の九代目真打に昇進 | 結成から18年を経て、漫才師としての地位を確立 |
| 1985年 | レコードを発売 | 『一気酒』『のろけ節』などを発表 |
| 1999年 | テレビで再注目 | 『初詣!爆笑ヒットパレード』出演を機に人気が広がる |
| 2000年 | 浅草芸能大賞奨励賞 | 長年の活動と人気が評価される |
| 2013年7月23日 | 浅草演芸ホールでのコンビ出演 | 二人での最後の寄席出演 |
| 2021年12月30日 | 昭和こいるさん逝去 | 77歳。前立腺がんのため死去 |
| 2025年5月24日 | 昭和のいるさん逝去 | 88歳。肺炎のため死去 |
受賞歴のなかでも注目したいのが、1976年のNHK漫才コンクール優勝です。演芸史資料によれば、二人は「民謡あれこれ」を披露しました。民謡を得意とするこいるさんが歌い、のいるさんがその歌い方に反応する構成で、二人の音楽経験を漫才に生かしたネタでした。
また、1977年の国立演芸場花形演芸賞銀賞、2000年の浅草芸能大賞奨励賞も重要な実績です。コンクールの結果だけでなく、寄席で長く活動し、芸を磨き続けたことが評価につながった点を見落とせません。
なお、NHK漫才コンクールの優勝は、すぐに全国的な人気を保証するものではありませんでした。二人は賞を獲得した後も地道な活動を続け、テレビでの再評価を待つことになります。評価と知名度が必ずしも同時に訪れないという、演芸界の厳しさも彼らの経歴には表れています。

【代表ネタ】「へーへーホーホー」の意味と独特の相づち芸
昭和のいる・こいるの代表的な芸風を一言で表すなら、話を聞き流すような相づちを、漫才の主役にしたことです。
のいるさんが話題を振り、説明し、時には相方に注意を向けようとする。ところが、こいるさんは「ヘーヘーホーホー」「はいはいはいはい」「よかった、よかった」「そんなもんだ、しょうがねぇ」といった言葉を繰り返し、真剣に聞いているのか分からない態度を見せます。報道各社の紹介記事でも、この掛け合いがコンビの持ち味として繰り返し取り上げられています。
「へーへーホーホー」に、辞書的な意味や決まった翻訳があるわけではありません。相手の話に対する曖昧な返事や、適当に聞き流す態度を音にしたものです。大切なのは言葉そのものの意味よりも、話の内容と返事の温度差にあります。
通常の漫才では、ボケが意外な発言をし、ツッコミが指摘することで笑いが生まれます。ところが、のいる・こいるの場合、こいるさんは必ずしも明確な反論や大きなボケを返しません。のいるさんが真剣に話せば話すほど、こいるさんの曖昧な返事が際立ち、会話そのものが空回りしていきます。
この構造には、繰り返しのリズムも欠かせません。似た相づちが続くことで観客は次の返事を予測し始めますが、その予測と微妙な変化が笑いを生みます。こいるさんの返事が適当に見えても、舞台上で同じリズムを保ち、のいるさんがそれに反応することで、掛け合いは成立していました。
演芸史資料「東京漫才のすべて」は、二人が地方公演などで司会漫才を務めていた際、こいるさんがのいるさんの話を聞き流す態度を見せたところ、観客に受けたことが芸風の転換点になったと紹介しています。つまり、最初から用意された決めぜりふだけでなく、舞台でのやり取りから生まれた発見が、代表的なスタイルにつながったのです。
代表ネタとしては、NHK漫才コンクールで優勝した「民謡あれこれ」のほか、初期の「マナー教えます」、野球を題材にした「くたばれベースボール」などが演芸史資料に記録されています。これらは初期の試行錯誤を知る手掛かりであり、現在広く知られる相づち漫才へ至るまでの変化を示しています。
【2026年最新】昭和こいる・昭和のいるの現在と死因・訃報
2026年現在、昭和こいるさん、昭和のいるさんはともに逝去しています。二人の「現在」を調べる際は、コンビの活動状況と、それぞれの訃報を分けて把握することが大切です。
昭和こいるさんは2021年12月30日、77歳で逝去しました。漫才協会の発表を受け、オリコンニュースなどが報じた死因は前立腺がんです。訃報は翌31日に公表され、コンビの特徴だった「ヘーヘーホーホー」などの相づち芸も改めて紹介されました。
昭和のいるさんは2025年5月24日午後7時45分、88歳で逝去しました。所属する落語協会の発表によると、死因は肺炎です。報道各社は5月26日に訃報を伝えました。のいるさんは石川県出身で、コンビでは主にツッコミを担当し、長年にわたり東京の寄席やテレビ番組で活動しました。
のいるさんの最後の寄席出演は、2013年7月23日の浅草演芸ホールでした。相方の体調不良によってコンビ活動は事実上停止し、その後は二人そろった舞台を見る機会がなくなりました。こいるさんはその後も別の形で活動を続けましたが、2021年に亡くなっています。
二人の訃報をめぐっては、名前が似ているため、どちらが先に亡くなったのか、死因は何だったのかが混同されやすい面があります。整理すると、こいるさんは2021年に前立腺がんで死去し、のいるさんは2025年に肺炎で死去しました。没年も死因も異なります。
また、コンビとしての最後の寄席出演が2013年だったことと、のいるさんの逝去が2025年だったことも区別が必要です。舞台から離れた時期と訃報が伝えられた時期には、約12年の隔たりがありました。2026年に二人の名前を検索する読者にとって、この時系列を把握することが、現在の状況を正しく理解するための基本になります。

【東京漫才への功績】遅咲きの再ブレイクと後世に残したもの
昭和のいる・こいるの功績を考える際、受賞歴と同じくらい重要なのが、テレビで再び注目された時期です。二人は1976年にNHK漫才コンクールで優勝しましたが、その後すぐに全国的なスターになったわけではありません。寄席を中心に活動を続け、1990年代末に改めて広い層へ知られるようになりました。
転機の一つとなったのが、放送作家の高田文夫さんによる推薦です。オリコンニュースが高田さんの回顧を紹介した記事によると、1999年のフジテレビ系『初詣!爆笑ヒットパレード』で、若手芸人が出演するコーナーに、当時すでにキャリアを重ねていた二人が起用されました。その出演で大きな反響を呼び、同年には『笑点』にも登場しています。
この再評価は、派手な演出や若者向けの流行に合わせることだけが、テレビで人気を得る道ではないと示しています。二人は長年磨いてきた寄席の芸をそのまま持ち込み、会話の間合いや相づちの繰り返しで笑いを生みました。若手芸人と並んでも埋もれず、独自のリズムで観客を引き込んだ点に強みがありました。
2000年には浅草芸能大賞奨励賞を受賞し、同年には高田文夫さん作詞、玉置浩二さん作曲の楽曲「そんなもんだよ、しょうがない」を発表しました。漫才の決めぜりふを思わせる言葉が、舞台以外の活動にも広がったことは、二人の芸風が広く親しまれていたことを示すエピソードです。
東京漫才への功績は、笑いのスタイルだけにとどまりません。二人は1984年に漫才協団の九代目真打へ昇進し、1980年代後半には落語協会の会員として寄席にも出演しました。漫才と落語が同じ寄席の舞台を共有する東京の演芸文化のなかで、長年活動を続けた存在でもあります。
さらに、二人の芸は観客の年齢や反応に応じて細部を変えられる柔軟さを備えていました。演芸史資料が紹介する過去の聞き書きでは、二人は持ちネタの本数が少ないことを冗談交じりに語りながらも、同じネタでも言い回しや展開を変えていたとされています。ネタの数を増やすことだけが芸の熟達ではなく、一つの型を観客に合わせて自在に運用することも、舞台芸の重要な技術なのです。
昭和のいる・こいるの芸を今振り返る意義は、懐かしい決めぜりふを思い出すことだけではありません。派手なボケや強いツッコミがなくても、二人の性格の違い、会話のテンポ、返事の微妙なズレを積み重ねることで笑いを成立させられる。そのことを、長い舞台経験を通じて示したコンビでした。
【のいる・こいる】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:昭和のいる・こいるは、どんな漫才コンビでしたか?
A1:のいるさんが話題を振り、こいるさんが「ヘーヘーホーホー」「よかった、よかった」などの相づちで受け流す、独特の掛け合いを持ち味とした東京漫才のコンビです。
Q2:昭和こいるさんと昭和のいるさんの死因は何ですか?
A2:昭和こいるさんは2021年12月30日に前立腺がんのため77歳で逝去しました。昭和のいるさんは2025年5月24日に肺炎のため88歳で逝去しました。
Q3:昭和のいる・こいるが優勝したコンクールと主な受賞歴は?
A3:1976年のNHK漫才コンクールで優勝し、1977年に国立演芸場花形演芸賞銀賞、2000年に浅草芸能大賞奨励賞を受賞しています。
Q4:「へーへーホーホー」には、どんな意味がありますか?
A4:特定の意味を持つ言葉というより、相手の話を適当に聞き流すような相づちを表現したものです。のいるさんの真剣な話と、こいるさんの曖昧な返事のギャップが笑いにつながりました。
Q5:昭和のいる・こいるの最後の寄席出演はいつですか?
A5:二人そろっての最後の寄席出演は、2013年7月23日の浅草演芸ホールでした。その後、コンビとしての活動は事実上停止しました。
【プロの結論】昭和のいる・こいるが東京漫才に残したもの
昭和のいる・こいるは、1966年のデビューから半世紀以上にわたり、東京の寄席文化とともに歩んだ漫才コンビです。1976年のNHK漫才コンクール優勝という実績を持ちながら、すぐに大スターになったわけではなく、舞台で試行錯誤を重ね、独自の相づち芸によって再び幅広い人気を獲得しました。
二人の芸が教えてくれるのは、漫才の面白さが言葉の奇抜さや声の大きさだけで決まるわけではないということです。話す側と聞き流す側の対照、同じ返事を繰り返すリズム、観客の反応を見ながら変化をつける柔軟さ。これらが重なって、短い相づちがコンビの看板になるほどの笑いを生み出しました。
昭和こいるさんは2021年、昭和のいるさんは2025年に逝去し、二人がそろって舞台に立つ姿は過去のものとなりました。それでも、受賞歴や寄席での活動記録、テレビ出演、そして「ヘーヘーホーホー」という耳に残る相づちは、二人の歩みを今に伝えています。
2026年に昭和のいる・こいるを知るなら、訃報やプロフィールだけでなく、若い頃の歌ネタ、NHK漫才コンクール優勝、1999年の再ブレイク、寄席で磨かれた相づち漫才を一続きの歴史として捉えることが大切です。二人が残したものは、懐かしい決めぜりふだけではありません。会話のわずかなズレを笑いに変える、東京漫才の豊かな技術そのものです。 (出典: の いる こ いる(Yahoo!ニュース))