徳山昌守の現在は?2026年最新情報と引退理由・川嶋戦、長谷川・亀田戦を徹底解説
元WBC世界スーパーフライ級王者の徳山昌守(とくやま・まさもり)氏は、現役時代に世界王座を2度獲得し、通算9度の防衛を果たした日本ボクシング界の名王者です。2007年3月15日に日本ボクシングコミッション(JBC)へ引退届を提出してから、リングの第一線を離れていました。
しかし、徳山氏の物語は引退で終わっていません。2009年には大阪・鶴橋で焼肉店を開業し、2024年12月には東大阪市に徳山ボクシングジムを設立。2025年11月には同ジムのプロ加盟が承認され、2026年10月には所属選手3人が同日にそろってプロ初勝利を挙げました。現在52歳の徳山氏は、世界王者から指導者へと新たな挑戦を続けています。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 現在:2026年10月時点では東大阪市の徳山ボクシングジム会長として、プロ選手の育成に取り組んでいる。
- 引退理由:2005年の川嶋勝重戦後にモチベーションが低下し、長谷川穂積・亀田興毅との対戦も実現しなかったことが大きな要因となった。
- 経歴と本名:1974年9月17日生まれ。本名は洪昌守(ホン・チャンス)で、36戦32勝(8KO)3敗1分の戦績を残した。
【徳山昌守のプロフィール】本名・生年月日・国籍とボクシング戦績
徳山昌守氏は1974年9月17日、東京都大田区に生まれました。2026年10月28日時点で52歳です。日本で活動するプロボクサーとして世界の頂点に立ちましたが、その経歴を理解するうえでは、競技実績だけでなく、本名やルーツにも目を向ける必要があります。
本名は洪昌守(ホン・チャンス)。徳山昌守という名前で広く知られていますが、在日コリアン3世として生まれ育ち、民族的な背景を公にしながら競技を続けたことでも知られています。国籍については、現役時代の報道では朝鮮籍として紹介された時期があり、後年のプロフィールでは韓国籍とされています。
ボクシングは東京朝鮮高級学校時代に始めました。1994年9月にプロデビューし、1996年には全日本新人王を獲得。1998年には元世界王者の井岡弘樹氏を破り、1999年に東洋太平洋スーパーフライ級王座を獲得するなど、着実に実績を積み重ねました。
徳山氏の大きな特徴は、相手の攻撃をかわしながら自分のパンチを当てる技術です。徳山ボクシングジムの公式プロフィールでも、左ジャブと間合いの計り方に優れた技巧派の右ボクサーとして紹介されています。単純な打ち合いに頼らず、距離とタイミングを支配するスタイルが、長期にわたる世界王座の維持を支えました。
プロ通算成績は36戦32勝(8KO)3敗1分。KO勝利の数だけを見ると強打者という印象は薄いかもしれません。しかし、徳山氏の持ち味は相手を力でねじ伏せることよりも、被弾を抑えながら有効打を積み重ねる試合運びにありました。

【世界王者への軌跡】WBC王座獲得から引退までの年表
徳山昌守氏のキャリアを象徴するのは、2000年の世界王座獲得、2004年の王座陥落、そして2005年の王座奪還です。敗北を経験しても再び世界の頂点に戻った点に、実績だけでは測れない競技者としての強さが表れています。
日本プロボクシング世界チャンピオン会の選手紹介や、ボクシング専門メディアの戦績記録をもとに、主な出来事を整理します。
| 年月 | 主な出来事 | 意味・実績 |
|---|---|---|
| 1994年9月 | プロデビュー | プロボクサーとしてのキャリアを開始 |
| 1996年 | 全日本新人王を獲得 | 若手選手として頭角を現す |
| 1999年 | 東洋太平洋スーパーフライ級王座を獲得 | 世界挑戦に向けて実績を積む |
| 2000年8月27日 | WBC世界スーパーフライ級王座を獲得 | 曺仁柱(チョ・インジュ)を破って世界王者に |
| 2000~2004年 | 世界王座を8連続防衛 | 長期政権を築き、技巧派王者として評価される |
| 2004年6月28日 | 川嶋勝重に1回TKO負け | 9度目の防衛戦で王座から陥落 |
| 2005年7月18日 | 川嶋勝重に判定勝ち | 3度目の対戦で雪辱し、王座に返り咲く |
| 2006年2月27日 | ホセ・ナバーロに判定勝ち | 王座復帰後の初防衛に成功 |
| 2007年3月15日 | JBCに引退届を提出 | 現役生活に正式な区切りをつける |
| 2024年12月2日 | 東大阪市に徳山ボクシングジムを開設 | 指導者として新たなキャリアを開始 |
| 2025年11月 | ジムのプロ加盟が承認 | プロ選手を育成できる体制へ前進 |
| 2026年10月4日 | 所属選手3人が同日にプロ初勝利 | ジム開設以来初となる同日3勝を記録 |
世界王座の防衛回数は、最初の王座在位中の8連続防衛に、王座奪還後の1度の防衛を加えた通算9度です。2006年2月のホセ・ナバーロ戦を最後に公式戦から遠ざかり、その後は王座を返上して引退へと向かいました。
特筆すべきなのは、徳山氏が世界王者のまま現役生活を終えたことです。一般的には、王座から陥落した後に再起を断念するケースもありますが、徳山氏は自ら王座を返上し、次の目標を模索した末に競技生活を終えています。
【2005年の川嶋戦】王座奪還の勝利が引退につながった理由
徳山昌守氏の引退理由を理解するうえで、避けて通れないのが川嶋勝重氏との3度にわたる対戦です。両者の対決は、徳山氏のボクシング人生を大きく変えた転換点でした。
最初の重要な対戦は2003年6月23日。徳山氏は川嶋氏を判定で下し、WBC世界スーパーフライ級王座の7度目の防衛に成功しています。しかし、2004年6月28日の再戦では状況が一変しました。川嶋氏の攻撃を受け、徳山氏は1回1分47秒TKO負けを喫し、長く守ってきた世界王座を失います。
この敗戦から約1年後の2005年7月18日、両者は再び拳を交えました。徳山氏にとっては、世界王座を取り戻すための大一番です。試合は12回まで続き、判定は3対0。採点は118対109、115対112、117対110で、徳山氏が川嶋氏を破り、王座奪還を果たしました。
通常であれば、この勝利はキャリアの再浮上を意味します。王座陥落から復帰し、因縁の相手に雪辱したのですから、次の防衛戦への期待が高まっても不思議ではありません。
ところが、徳山氏はこの試合を境に、現役生活に対するモチベーションが低下したと語っています。勝利したことと、これからも戦い続けたいと思えることは別だったのです。
この点は、徳山氏の引退を理解するうえで重要です。川嶋戦で敗れたことだけが引退につながったのではありません。むしろ、敗北を乗り越え、再び世界王者になった後に、競技者として次に追い求めるものが見えにくくなったことが大きかったと考えられます。
2006年2月27日には、ホセ・ナバーロ氏を相手に12回判定勝ちを収め、王座復帰後の初防衛にも成功しています。つまり、引退直前の徳山氏は、実力的に世界の舞台で通用しなくなった選手ではありませんでした。リング上の能力と、現役を続ける意欲が別々の問題になっていたのです。

【引退理由の真相】2007年3月15日、長谷川・亀田との対戦はなぜ実現しなかった?
徳山昌守氏は2006年5月26日の会見で現役続行の方針を示し、対戦相手を長谷川穂積氏と亀田興毅氏に絞る考えを明らかにしました。世界王座を何度も防衛してきたベテランが、対戦相手を具体的な名前で限定したことは、当時のボクシング界でも注目を集めました。
長谷川氏はWBC世界バンタム級王者として活躍していた選手です。徳山氏が得意とするスーパーフライ級より1階級上に位置し、両者の対戦が実現すれば、階級をまたぐ実力者同士のビッグマッチになる可能性がありました。
一方、亀田興毅氏は当時、若手の有力選手として大きな注目を集めていました。徳山氏がこの2人を対戦候補として挙げた背景には、単に試合数を重ねるのではなく、自分の現役生活を締めくくるにふさわしい相手と戦いたいという意図があったと考えられます。
しかし、両者との試合は実現しませんでした。イミダスの2007年3月の記事では、長谷川陣営が対戦に難色を示したことが、実現しなかった経緯の一つとして記録されています。亀田氏との対戦についても、具体的な公式戦の成立には至りませんでした。
ただし、対戦が成立しなかったことを、そのまま「相手が一方的に逃げた」「どちらかが敗北を恐れた」と解釈するのは適切ではありません。対戦交渉では、階級、試合日程、興行上の条件、選手や陣営の方針など、複数の要素が関係します。公表された経緯から確認できるのは、徳山氏が希望したカードが正式な試合として実現しなかったという事実です。
徳山氏は2006年12月には世界王座を返上。その後も進退について考え続け、2007年3月15日にJBCへ引退届を提出しました。
引退時には、「考え続けた引退届。自分の中ではずっと前から答えは出ていたが、自分の考えだけでは(進退を)決めることができなかった。(引退した)今はスッキリしている」との趣旨を語っています。また、将来は公民館や体育館で子ども向けのボクシング教室を開きたいという意向も示しました。
この発言から読み取れるのは、引退が単純な敗北や衰えによるものではなかったということです。川嶋戦後のモチベーションの低下、納得できる対戦相手を求める気持ち、そして現役生活を終える決断が重なった結果でした。
【徳山昌守の現在】2026年は東大阪のボクシングジム会長として活動
2026年現在の徳山昌守氏は、東大阪市で徳山ボクシングジムを運営する会長です。世界王者としての実績を生かし、若い選手の育成やボクシングの普及に取り組んでいます。
引退後の徳山氏は、2009年7月に大阪市生野区の鶴橋で焼肉店「まる徳」を開業しました。現役時代とは異なる実業家としての活動を続けた後、ボクシング指導にも携わるようになります。ボクシング専門メディアの報道では、焼肉店は2017年に閉店したとされています。
その後、念願だった自らのジムの開設に向けて準備を進め、2024年12月2日に徳山ボクシングジムをオープンしました。場所は東大阪市長栄寺で、近鉄・JR河内永和駅の近くです。開設当初はフィットネス利用者や子どもたちの育成にも力を入れ、プロを目指す選手だけでなく、健康づくりを目的とする人も受け入れる方針を示していました。
大きな節目となったのが2025年11月です。ボクシング専門メディア「BOXING NEWS」や「ボクシングモバイル」の報道によると、徳山ジムのプロ加盟が承認されました。アマチュア向けの指導拠点から、プロボクサーを育成するジムへと活動の幅を広げたことになります。
そして2026年10月4日、徳山ジム所属の加藤慶介選手、李勝輝選手、道家孝明選手が、それぞれの試合でプロ初勝利を挙げました。スポーツ報知の報道によると、ジム開設以来初めて、所属選手3人が同日にそろって勝利を収めた出来事です。徳山氏はセコンドとして試合を見届け、選手たちの勝利を喜びました。
2026年10月28日時点で、徳山氏は52歳。現役時代のように自ら世界タイトルを争うのではなく、世界を知る指導者として次世代を育てる立場にあります。ジムのプロ加盟と所属選手の勝利は、その活動が具体的な成果につながり始めたことを示しています。
徳山ジムが掲げるコンセプトは「道険笑歩」。厳しく険しいトレーニングも、笑いながら乗り越えていくという考え方です。現役時代に培った技術だけでなく、長いキャリアで経験した勝利、敗北、目標を失う感覚を、指導の現場でどう伝えていくのかが今後の注目点です。
【韓国籍・在日朝鮮人3世と勲章】徳山昌守のルーツを正しく理解する
徳山昌守氏について調べると、本名の洪昌守という名前に加え、「在日朝鮮人3世」「韓国籍」「労働英雄」「人民体育人」「国旗勲章第1級」といった言葉が登場します。これらはそれぞれ異なる意味を持つ情報であり、ひとまとめに理解すると経歴を誤解する可能性があります。
徳山氏は東京都大田区生まれの在日コリアン3世です。日本で生まれ育ち、日本のプロボクシング界を主な活動の場として世界王者になりました。一方、民族的な背景についても公にして競技を続けており、その姿勢は現役当時の報道でも取り上げられました。
国籍については、現役時代の報道では朝鮮籍として紹介され、後年の人物プロフィールでは韓国籍と記載されています。ここで区別したいのは、民族的なルーツ、国籍、そして日本での出生・生活歴は同じ意味ではないという点です。
また、徳山氏は北朝鮮からスポーツ分野の称号や勲章を受けた人物としても紹介されています。中央日報の2006年3月の記事は、2001年に「人民体育人」と「努力英雄」の称号を受けたと報じています。一方、人物プロフィールでは「労働英雄」「人民体育人」「国旗勲章第1級」という表記も用いられています。「努力英雄」と「労働英雄」は日本語資料で表記に揺れが見られるため、出典ごとの記載を区別して読む必要があります。
これらの称号や勲章は、北朝鮮側から授与されたものとして紹介されているものであり、韓国の国家勲章と混同してはいけません。また、現在の国籍に関する記載と、過去に受けた称号・勲章は別々の情報です。
徳山氏の競技人生は、単に日本で活躍した外国籍のボクサーという枠には収まりません。日本のリングで世界王者となりながら、自身の民族的背景を公にして戦ったことが、当時の社会的な関心にもつながりました。競技実績とルーツの両方を理解することで、徳山氏がボクシング界で残した足跡をより立体的に捉えられます。
【徳山昌守】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:徳山昌守は2026年現在、何をしていますか?
A1:2026年現在は、東大阪市の徳山ボクシングジムで会長を務め、プロボクサーの育成に取り組んでいます。2025年11月にジムのプロ加盟が承認され、2026年10月4日には所属選手3人が同日にプロ初勝利を挙げました。
Q2:徳山昌守の本名と生年月日は?
A2:本名は洪昌守(ホン・チャンス)で、1974年9月17日生まれです。東京都大田区出身の在日コリアン3世で、2026年10月28日時点では52歳です。
Q3:徳山昌守の引退理由は何ですか?
A3:2005年の川嶋勝重戦後にモチベーションが低下したことに加え、希望していた長谷川穂積氏や亀田興毅氏との対戦が実現しなかったことが主な理由として語られています。2007年3月15日にJBCへ引退届を提出しました。
Q4:徳山昌守のボクシング通算戦績は?
A4:36戦32勝(8KO)3敗1分です。WBC世界スーパーフライ級王座を2度獲得し、通算9度の防衛を果たしました。
Q5:徳山昌守と長谷川穂積、亀田興毅の試合は実現しましたか?
A5:実現していません。徳山氏は2006年に両者を対戦候補として挙げましたが、交渉は正式な試合成立に至らず、2007年に引退しました。対戦が実現しなかった背景には、陣営の方針や試合条件などの調整が関係したとされています。
【プロの結論】徳山昌守の現在と引退をどう読み解くか
徳山昌守氏の経歴を振り返ると、世界王者としての実績と、引退後の生き方が一本の線でつながっていることが分かります。2000年に世界王座を獲得し、8連続防衛を達成。2004年には川嶋勝重氏に敗れて王座を失いましたが、2005年の再戦で雪辱を果たし、再び頂点に立ちました。
それでも、王座を取り戻したことが現役続行の決定打にはなりませんでした。希望した相手との対戦が実現せず、競技への意欲も変化するなかで、徳山氏は2007年に引退を選びました。これは、戦績だけを見ていては理解しにくい引退理由です。
一方、引退後は飲食店経営を経験し、2024年にボクシングジムを開設。2025年のプロ加盟、2026年の所属選手による勝利と、指導者としての新しい歩みを進めています。現役時代に培った「打たせずに打つ」技術を次の世代に伝えることが、現在の活動の中心です。
徳山昌守氏を理解するうえで大切なのは、引退を単なる敗北や衰えの結果と捉えないことです。世界王者としての実績、川嶋戦後の心境の変化、対戦交渉の不成立、そして指導者としての再出発を分けて考えることで、その選択の背景が見えてきます。
2026年現在、徳山氏の挑戦の舞台は自分自身が戦うリングから、若い選手たちが成長するリングへと移りました。今後は徳山ジムからどのようなプロ選手が育ち、世界を目指す選手が現れるのか。世界王者として残した記録に加え、指導者として築く実績にも注目が集まります。 (出典: 徳山 昌 守(Yahoo!ニュース))